関西日中平和友好会
Kansai Japan and China Peace and Friendship Association
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中国空軍設立秘話

平河総合戦略研究所専務理事の佐藤守氏 (元航空自衛隊空将)のブログにて「中国空軍設立秘話」を発見しました。当会設立に多大な貢献をされました林弥一郎氏(1999年8月15日逝去)が中国空軍設立に協力した経緯と林氏の微妙な心情を見事に表している。同じ空軍パイロットとして「林氏の生き様」に共感したからと思っています。
歴史を風化させない、また日中両国の若者たちにも史実を冷静に評価・判断する視点を持って貰うために当会のHPに載せなければならない。それが林弥一郎氏の供養となり、また功績を後世に伝える事になると考えています。
佐藤守氏とは政治的な見解や立場の違いは多いですが、氏の「中国空軍設立秘話」は必ず日中友好に貢献すると確信しておりますので一読お願い申し上げます。

見本重宏


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佐藤守氏のブログより

防衛大航空工学科卒(第7期)。航空自衛隊に入隊。戦闘機パイロット(総飛行時間3800時間)。外務省国連局軍縮室に出向。三沢・松島基地司令、南西航空混成団司令(沖縄)。平成9年退官。軍事評論家。岡崎研究所特別研究員.チャンネル桜」コメンテータ。平河総研・専務理事

中国空軍創設秘話(2005.11.1)

日米空軍の友情物語と、中国人民開放空軍軍人とのやり取りを書いたところ、かなり反響があった。中には御手紙も頂いたが、中国空軍大佐たちとのやり取りは、いわゆる「兄弟」関係みたいなやり取りだったから、実はその場にいた中国の学者先生たちのほうが驚いて「将軍、軍人関係はどこの国でもすぐにそのような親しい関係になるのですか?」と聞いた。特に「パイロット」間の関係はその傾向が強いが、私が「中共空軍は、我が航空自衛隊の弟分である」と言ったからますます教授達は怪訝な顔をした。実は中共空軍創立には、旧帝国陸軍航空隊が大きく関与したのである。

終戦で「抑留」された一個教育飛行隊(別名林飛行中隊)が、時の周恩来、林彪等、錚々たる共産党幹部に懇願されて中共空軍創設に協力したのである。そう言うと「えっ、本当ですか?」と聞くので、「日本人に歴史を勉強せよと言う割には、自分の国の歴史を知らなさ過ぎる。もっと自国の歴史を勉強しなさい」と前置きして林飛行中隊の逸話を教え、「君達は当然知っているよな?」と大佐に聞くと、「知っています」とはっきり答えた。

中共空軍のみならず、中国の航空界をリードする要人達は、殆ど全て林少佐の教え子達であることを大佐たちはちゃんと知っている。「驚きました。初めて聞きました」と文官たちは言ったが、「しっかり教えておきなさい」と大佐に言うと「ハイ!」と笑った。

戦後創設された航空自衛隊は基本的に米空軍が兄貴分である。しかし中共空軍創設の恩人は旧帝国陸軍林飛行中隊の300人であったことは、案外日本人も知らないことかもしれない。イヤ、林飛行中隊のみならず、終戦時に大陸にいた日本人は軍属民間人合わせて358万人だったと言われていて、大半は帰国したが国共内戦が激化すると、引き上げが中断されたこともあり、旧満州地方に数万人が残留を余儀なくされ、そのうちに人民解放軍に8000人とも一万人とも言われる日本人が協力、少なくとも3000人が八路軍の兵士となって前線で活動したと言う。彼らが中国の内戦に参加した理由はさまざまであったが、新中国建設の基盤作りに貢献したことだけは間違いない。そんな事実を知らない新世代の中国人学者?たちから、日本人は悪行の限りを尽くした鬼であるかのようにいわれて、反論も出来ないようでは、亡くなった先達に申し訳が無いではないか。詳しくはそのうち書くことにするが、助けてやった国の後継者たちから、靖国問題や教科書問題などでとやかく言われる筋合いはまったくないことだけはしっかり認識しておく必要があろう。

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中国空軍創設秘話

中国空軍創設秘話 その1(2005.11.5)

反響が大きかったので、林飛行中隊の秘話を書いておこう。参考文献は散逸していて、纏まったものが少ない。そこで私の後輩で、新治毅元防大教授が航空自衛隊>の部内誌に発表した文献を抜粋引用しつつご紹介することにしたい。

新治教授は、1997年5月に防衛研修ツアーで北京を訪問した際、「私は中国空軍OBの姚峻(ようしゅん)と申します。私は日本陸軍の林弥一郎少佐に九九式高等練習機による操縦教育を受けました。林飛行隊の皆さんは中国になかった空軍を親身になって産み育てられ、その行き届いた教育と薫陶に今でも感謝しています」と挨拶した老紳士が、元中共空軍副参謀長の退役中将であったことから興味を持って調べたという。

「林飛行隊の隊員達は帰国後も多くを語ろうとしなかったため、我国ではこれまで余り知られていなかった。しかしながら林飛行隊がどのようにして中国空軍建設に貢献したかについては、中国側の新聞に『中国空軍の友=林弥一郎先生』と題して詳しく連載報道されていたのである。以下は、この記事の日本語訳『中国空軍の友=林弥一郎先生とその同志達』という日中友好会九州支部編集部発行の小冊子を他の資料によって若干の補足を加えながら抜粋要約して紹介する」と彼は書いているが、私も旧軍の先輩から「彼は共産軍に協力した、と言うことを気にしていて、殆ど語らなかった」と聞いていた。おそらく同期生などからも快く思われなかったところもあったのだろう。帰国後も一切の会合に姿を見せなかったという。しかし、最近(と言っても私の退官直後のことだが)一部に真相を語り始め、それを聞いた陸士の先輩から概要を聞いたことがある。終戦直後のドサクサ、特に「停戦命令を受けてやむなく敵軍に降伏せざるを得なかった」苦悩を知るとき、林部隊長の決断は正しかったと私は感銘を受けたのであったが、実際に戦場で合まみえた「敵軍」に協力したことを快く思わない戦友がいたとしても、やむを得なかったであろう。

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(1) 創設に協力した経緯

1945年8月15日、我国が降伏を受諾した後、大陸では国共内戦が勃発する。

ご承知のように、国民党軍(蒋介石軍)は米国などから多大の軍事援助を受けていたし、支那事変以前から欧米諸国から各種軍用機を購入し、有名なシェンノートなどによって指導を受けていたが、対する共産軍(毛沢東軍)はいわば農民軍だったため、海・空軍戦力は皆無であった。1945年9月2日、我国はミズーリ号上で正式に降伏文書に調印したが、大陸においては、9月9日に支那派遣軍総司令官・岡村寧次大将が、中国陸軍総司令・何応欽上将に対し降伏文書に調印して戦闘は終結した。私が言う、勝っていた軍隊が天皇の命によって「負けていた軍隊」に降伏したのである。

この頃林少佐率いる第2航空軍第101教育飛行団第4練成飛行隊(一式戦隼を使用)は、遼寧省東部に位置していたが、大部分の第一線部隊と同様瀋陽(奉天)で9月末に降伏を受理した。間もなく林彪、彭真、伍修權の3名は林飛行隊長を接見して、空軍力皆無の人民解放軍の航空部隊創設のために航空学校を創設する事業を援助するように依頼した。伍修權参謀長はこのとき、長征以来ずっと身に着けていたブローニング拳銃を林少佐に記念として贈呈し、出来るだけ大勢の人間を連れてくるように要請したという。

林少佐はその事情を「私は8月15日の陛下の御言葉を聞いて、もう自分は部下に命令する権限は無いと思い定めた。したがって要請に即答せず、部下の意見を聞いて多数決で決定することにした。多くの部下達はおそらく日本に帰りたいというだろうと思ったが、これから未だ飛べるなら残ると言うのが大多数の意見であった」と語っている。パイロット気質とはそういうものである。しかも大東亜戦争直後のあの頃、林少佐は「多数決」で決定したというから、我国には「民主主義」が育っていたのであって、戦後米国から教えられたことではないことを証明している。しかも部下全員が林少佐に従ったというのだから、彼の人徳をも物語っている。

創設期の中共空軍は、国民党軍の攻撃を避けるため、吉林省の通化から牡丹江に、更に黒龍江省の東安にと転々と移動する。練習機は日本軍の九九式高等練習機であったが、各地から部品を集めて漸く飛べるようにした、風防ガラスが無い、座席のベルトが無い継ぎはぎだらけの飛行機であったが、林飛行隊の技術者達は、日本機のみならずアメリカのP-51戦闘機も練習機に改造した。日本人の操縦教官と中共軍の学生パイロット達は、互いに命がけでこのような継ぎはぎだらけの機体で訓練したのである。

「東北人民解放軍航空学校」は、1949年5月に「中国人民解放軍航空学校」となった。この「航空学校」の卒業生が、今日の中国空軍、航空工業及び民間航空を支えており、人々は「東北人民解放軍航空学校」を、中国空軍と航空事業の揺籃として「東北老航校」と呼んでいるという。「老」はベテラン、年長を意味し、古い組織への尊称・愛称である。

その後、林弥一郎少佐は、東北地区航空委員会委員、航空総隊副総隊長、航空学校参謀兼飛行主任教官等を歴任して、1956年8月に帰国した。

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(2)林少佐の戦歴

林弥一郎は1911年大阪市南河内郡藤井寺町の一農家に生まれ、旧制中学卒業後、1932年に航空第1連隊に入隊、下士官試験に合格した。その後航空学校で飛行技術を習い、熊谷飛行学校と航空士官学校で飛行教官を務めた。1941年11月、30歳のときに飛行第54戦隊の中尉で中隊長として中国に派遣された。最初は武漢の航空作戦に参加、後に広東、広西一帯の航空任務に就いた。

1942年6月、桂林上空で米空軍P-40戦闘機編隊との空中戦で旧式な九七式戦闘機で戦い、機体に34個の銃弾を受け、エンストを起こしながら中隊を指揮し、中隊全体で5機を撃墜する戦果を上げた。林少佐は後に「我を忘れて戦い、九死に一生を得た」と語っているが、この傷だらけの機体で奇跡的に広州白雲飛行場に無事帰還したのである。

2年後少佐に昇進し、前述した関東軍第2航空軍所属の第4練成飛行隊長になった。部隊は北満の佳木斯(ちゃむす)に駐屯し、戦闘技術を習得した戦闘機パイロットを対象に、彼らを隼戦闘機に乗せて更に高度の戦闘機訓練を実施すると同時に、対ソ防空任務も帯びていた。装備は「隼」約60機を含む70数機で、中国大陸内の基地を前進基地とする米空軍の重爆撃機B-29による日本本土爆撃が始まると、林飛行隊にB-29の中国上空における迎撃任務(ハ号作戦)が課せられた。

当初は、北満から南満州へと迎撃作戦を展開していてが、遠距離に加えて超高高度の作戦による機体の消耗が激しいことなどから、1944年11月頃には基地を瀋陽(奉天)の2つの飛行場に移して、瀋陽の防空任務にも着いていた。終戦直前のソ連の参戦により、瀋陽を避けて部隊を奉集堡(ふぁんちいぱお)飛行場へ移動させたがそこで終戦を迎えた。

その頃の林飛行隊の人員は、3百数十人に膨れ上がっていたというが、林少佐は、戦いには勇猛果敢、人柄は正義感が強く穏健、部下思いで多くの兵士達から慕われていたと言う。

次回は、終戦直後の林飛行隊の状況を書くことにする。

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中共空軍創設秘話 その2(2005.11.6)

1、 八路軍人民解放軍に投降

卑怯にも日ソ不可侵条約を破ってソ連が突如参戦したことと、日本がポツダム宣言を受諾し降伏したため、関東軍の指揮命令系統は崩壊した。

航空部隊であった林少佐の第4練成飛行隊は、地上戦闘用の武器類は貧弱であった。小銃も10人に1丁、将校は拳銃のみであり弾薬も食料も乏しかった。黒竜江方面から侵攻してくるソ連軍の捕虜にはなりたくない。かといって国民党軍(蒋介石軍)にも投降したく無い。林少佐は部下と協議して、瀋陽からさほど遠くない岫厳(しういえん)に異動することにした。岫厳には日本開拓団の農場があり食糧は十分だと考えられた事と大連や朝鮮に近いから船で帰国できるかもしれないと考えたからである。林少佐は何とかして300人を超える部下達を無事故国に連れて帰ろうと決意していた。

そこで10数両の部隊車両で残り少ない食料、弾薬、航空機の機関銃を取り外して積載し、9月9日に瀋陽郊外の奉集堡飛行場を出発した。「流浪の軍隊が安全に行軍できる絶対条件は、敵を作らず無用のトラブルを起こさないことである」と新治教授は書く。

そこで林少佐は3か条の禁止令を部下に通達する。

・第1 絶対に農地を踏み荒らさない。新たな敵を作ってはならない。
・第2 食料は無償で持ってきてはならない。必ず代金を支払う。
・第3 大和民族の名誉にかけて中国の婦人を侮辱してはならない。

これを犯せば農民達は絶対に許さないだろう。この規律に違反したものは誰でもこの部隊に留まる事を許さない。

この禁止令のおかげで林少佐は敗残兵を連れて20日後に上湯(しゃんたん)という小村にたどり着いたが、岫厳は未だ遠かった。

一方状況は日に日に緊迫しつつあった。航空部隊である林部隊は、地上戦闘訓練を殆ど実施したことが無いので、地上戦に巻き込まれることは「全滅」を意味する。林少佐の任務は戦闘を極力回避し何とかして部下全員を故国に帰還させることであった。

上湯に異動して2〜3日経った10月のある日、数人の八路軍の代表が、日本人の通訳を伴って部隊を訪れた。通訳の日本人は満州時代に鳳城県の副県長をしていたといい、彼によると鳳城県には約二万人もの日本人難民が居りその殆どが、林部隊が中国軍と戦火を交えないでほしいと希望しているという。万一戦闘状態に陥ると日本人の生命を危険に曝すことになるから、同胞のことを考えて武器を提出してほしいと要請するのである。

林少佐はその態度から悪意があるとは思えず、理にかなっていてるので「私の目標は部隊全員の安全で、兵士を無事に日本に連れて帰ることである。一人の兵士が殺されても心が痛むし、まし二万人の同胞の生命がかかっているとすれば、投降は日本軍の命令であるので私達は武器を渡す。ただ希望としては私たちを人道的に遇して欲しい」と述べたところ、八路軍代表は「快く私たちの要求を受け入れていただき心より感謝します。我々はあなた方の大義を重んじる行為と境遇を考え、皆さんに対して歩兵銃、機関銃及び弾薬を渡すことを要求します。しかし将校の軍刀は差し出す必要はありません」と言った。

将校にとって軍刀は軍人の栄誉であり、軍刀を残すとは思いも及ばず、林少佐は八路軍の寛容な配慮に感謝したといわれる。

翌日武器引渡し場所に行くと、空き地に木の机が一つ置いてあるだけで、一人の武装兵もいなかった。八路軍の代表が一人いて武器を机に置くように指示した。

儀式を終わって林部隊員が村に入ると村の入り口に村人達が待っていて拍手で迎え、八路軍の兵士の一隊が出てきて握手を求めてきた。これが八路軍の政策で、武器を放棄したものは皆友人ということであった。

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2、 林彪将軍との会見

それから数日後、林少佐以下10名の日本軍代表を鳳城県に迎えた八路軍幹部は、直ぐに瀋陽に向かうように要請した。八路軍幹部は一行に一個小隊の護衛をつけ、少佐らは汽車で瀋陽に向かった。当時、国民党は米国の援助下に、大挙して東北に兵を動かしていたから、東北地方は一触即発の状態にあった。

瀋陽の東北民主聯軍総司令部では林少佐ただ一人が三人の八路軍高級幹部の前に招き入れられた。「この方が林彪司令官です」と告げられた林少佐は耳を疑った。林は当時34歳であったが、少佐より2〜3歳年上だろうか、有名な林彪将軍は、全東北地方を指揮するにしてはとても若いと思った。続いて彭真、伍修權という二人の余り知らない名前を聞いたが、彼らが当時中国共産党東北局書記と東北民主聯軍の参謀長であった。林(リン)と林(はやし)と言う取り合わせも奇妙な縁であったが、八路軍は、空軍と海軍を持たない歩兵中心の軍隊であったから、国民党軍、更には日本軍からの攻撃には対抗すべくも無く、昼間の行動は極端に制約されていた。「空軍があれば」というのが彼らの長年の悲願だったのである。

遼東半島の東南にある奉集堡飛行場に駐屯していた第4練成飛行隊・林部隊に、林彪らは空軍創設のための協力を要請することにしたのである。

彭真は「我々は過去において空軍が無く、戦争の時には非常に困った。空軍の建設に是非協力してもらいたい。終われば諸君の帰国に協力することは勿論、その間の生命、財産を保証する」と言ったという。生命は当然だが、今や林部隊員には財産というべきものもあろうはずもない。しかも降伏した身、断ることも不可能であったろう。

「中国共産党は、大東亜戦争終結以前に、抗日戦争が終わった後の時局の発展方向を既に予見し、強固な東北根拠地を作ると同時に、航空学校を創設し、幹部を要請して人民空軍を作ることを計画していた」と新治教授は書いているが、国共合作、支那事変を引き起こした盧溝橋事件も彼らが計画的に実行したものであり、日本軍「敗退」後は、本来の敵である蒋介石打倒こそが、彼らの最終目的なのであった。

日本の関東軍が満州にいたので、飛行場や航空機もあり、航空事業を起こし空軍を創設する条件は整っていた。したがって中国共産党は党が養成した一部の学生と航空知識がある幹部を東北に派遣することとし、9月には延安から航空研究組長王弼と副組長常乾坤という航空技術幹部を派遣して、急遽東北で航空学校の建設に着手していたのである。しかも最初に延安を出発した劉風、蔡云翔などの5名は既に瀋陽に到着していた。中国共産党としては、現在直ちに使える日本の航空部隊を是非迎える必要があったのである。

林少佐は襟を正して聞きながら、彼の本心としてはこの重大で面倒な任務は引き受けたくなかった。目前のことを考えればできるだけ早く300命余の部下達を安全に帰国させ、部隊長としての責任を果たしたかった。

「空軍建設は複雑な問題で操縦士を育成するのは特殊な任務であり、一年や二年で出来るものではない。現在何もわからない段階で、一途に帰国を望んでいる若い兵士達にどのようにこれを伝えて納得してもらえるか。部隊は既に武装解除され、私は彼らを指揮する権限は無い。皆と相談して要求と条件を率直に伝えその上で決めたい」というと、「あなたの言うことは道理だ。ところでどのような条件があるのか」という。

少佐は少し考えてから丁重に次のように述べたという。 

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中共空軍創設秘話 その3(2005.11.8)

1、中共空軍創設のための協力を受諾

中国共産党東北局書記・彭真から、空軍創設を要求された林少佐は、少し考えてから次のように回答する。

「第一に我々を捕虜として扱わないこと。操縦士を育成するのは極めて特殊で些細なことが命の危険に繋がるから、厳格な規律のもとで行うことを保証して欲しい。教官は命令を下し規律を守らせる権利を要求する。このことは捕虜と勝利者の関係では絶対に行えない。教官と学生は師弟の関係でなければならない。学生は教官に服従すべきで、これが出来なければ、教育の仕事はうまくいかない。

第二に、心身の健康を保証しなければ飛行技術は学べない。高空を飛行する人の体力消耗は非常に大きい。栄養が欠乏していては心身の健康を保証することは出来ず、学習任務を達成することは出来ない。又、日本人の食習慣も考えていただきたい。

第三に、同僚に長期間教育することを要求するなら、彼らの生活の諸問題を考えて欲しい。家族があればその生活を保障し、独身のものには結婚を許し、生活を保障して欲しい」

林少佐は言い終わると後悔したというが、どうしてどうして、実に見事に「飛行教育に必要な要件」を網羅した発言をしている。私も浜松基地で4年4ヶ月もの間、F-86Fによる戦闘機操縦教育を担当した経験があるが、林少佐の言うとおり、飛行教育は「真剣勝負」であって御遊びではない。しかも「捕虜」の身でありながら、「敵軍」であった共産党高級幹部相手に要求したのだから立派なものである。しかし、3人は直ちに次のように回答したという。

「あなたが出された条件は皆当然のことである。若し、飛行教官をするなら当然教官として待遇する。又、我々は日本人が白米を好きなことは知っているので出来るだけ保証する。東北で白米を補給するのは難しいが中国は広いからどこかにあるでしょう。若い人の結婚は、我々八路軍の幹部にも家族はいるので問題はない」
林少佐は注意深く回答を聞きながら,特に「教官」の部分については感動したという。

伍修權は「今日の話し合いは有意義であった。先生(林少佐)に敬意を表してこの拳銃を記念として贈ります」と言いながら、腰から拳銃(ブローニング)を外すと林少佐に手渡した。

「これは25,000里の長征(蒋介石軍に追われた逃避行)を私と共に歩いた貴重な記念品です」

林少佐は意外なことに体が震え、熱いものがこみ上げてくるのを覚えたという。少佐も一週間前に武装解除で彼らに拳銃を渡したが、今、八路軍の高級参謀が彼に拳銃を贈ってくれたのである。

村に戻ると少佐は部隊全員を集めて総司令部での話し合いの内容を説明し、皆の意見を求めた。少佐は、部下達の共産党・八路軍に対する警戒心には根の深いものがあって、誰も帰国の日を遅らせてまで困難な仕事を請け負うはずは無いと思っていたが、全く彼の心配とは裏腹に、八路軍に参加して空軍創設に協力しようという者が大部分を占めた。

彼らは、単に飛行機が好きなだけではなく林隊長に対する信頼が厚かったのである。当時多くの日本人が八路軍に入ったが、林飛行隊のように300人以上の旧軍人が集団で入り、途中紆余曲折はあったものの、大勢として所期の目的を完遂できた事例は他に見当たらなかった。部隊長・林少佐の人柄、統率力、的確な判断力などがそうさせたのだといえる。

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2、困難を極めた飛行機及び機材集め

林部隊を中心として東北に八路軍の「瀋陽航空隊」が誕生した。延安から来ていた黄之一、蔡云翔、劉風などと協力して航空隊業務を始めることになり、直ちに飛行機の修理、材料の収集、訓練の準備に取り掛かった。村に駐留していた林部隊は本渓に着き、八路軍と協力し手分けして奉集堡、遼陽、栄口、四平等の飛行場で残置されていた飛行機と機材を集めた。当時、国民党軍は東北に攻撃を開始し戦いが始まっていた。そのため東北民主聯軍総司令部は、瀋陽から撫順に移り、更に佳木栖斯に移動した。その頃には延安から派遣された航空技術要員が集まり、現有の「航空隊」の基礎の上に「航空委員会」を設けて、主任委員には参謀長・伍修權自ら就き、秘書は黄之一、委員には常乾坤、王旧弼、蔡云翔、劉風、林弥一郎少佐が就いた。

林少佐は1945年12月10日、航空隊を率いて本渓から吉林省の通化に移動した。そして1946年1月1日、中国共産党は「東北民主聯軍航空総隊」の成立を宣言する。これこそが後の航空学校の前身であり、総隊長は東北民主聯軍の後方司令官・朱瑞が兼務した。この日、500人の全隊員の前で、朱瑞総隊長は、林弥一郎、常乾坤、白起を副校長に任命する。

更に1946年3月1日、航空総隊を航空学校と改め、林は参議として専門に教官を担任することになる。しかし、3月3日、国民党軍のB-25爆撃機数機が通化飛行場を爆撃したので、牡丹江に移動することになった。

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3、業務開始

4月中旬、航空学校は牡丹江に移転完了し組織機構が定まった。校長が常乾坤、副校長は白起、副政治委員は黄之一、願跡磊、参議が林弥一郎、教育長は蔡云翔、副教育長が将天然、政治部主任は白兵であった。その下に訓練処、校務処、供給処、「処」の下には「科」があり、その中に「班」が設けられた。教官と整備員は日本人で、器材班と運輸班は日本人と中国人の合同であった。操縦教育を受ける学生は、「班」を「幹部班」「甲班」「乙班」に分け、「幹部班」は高級空軍指導者の養成を目的として設置され、中佐、大佐、少将クラスで30〜40歳代の中から20人が選抜された。このクラスは林少佐を含め6名の教官によって訓練が行われた。1人が4名の学生を教え、日本の九九式高等練習機を使用した。

「甲班」「乙班」は、未来の師長(師団長クラス)と、空中指揮官を養成するもので、「甲班」は15名、「乙班」は20名で、後に中国空軍の多くの指揮官がこの2個班の中から生まれた。「学生班」の中に「機械班」があり、飛行機の整備と修理を学んだが、これは日本人技術者が受け持った。飛行機は主として廃品を集めたため、全て寄せ集めで組み立てられた。このようにして8機の九九式高等練習機を作り、1947年からの飛行訓練が可能になった。又、米国のP-51戦闘機を複座の練習機に改造するため、操縦系統と座席を日本の九九式高等練習機で代用し、重心位置を合わせる努力をして、10数機のP-51練習機を改造した。

そのため訓練時間を短縮することが出来、通常は九九式で20〜40時間の訓練をした後、P-51の訓練に移ることにされていたが、学生達は何時間もしないうちにP-51の単独飛行ができるようになったという。後に朝鮮戦争が始まると、ソ連空軍からジェット戦闘機(MIG-15)が供与されるが、学生はP-51の経験があったので直ぐにジェットで飛行することが出来、人民解放軍が短期間にミグ戦闘機で米空軍のF-86Fと戦闘出来るようになったのである。中国人学生は林少佐など日本人教官が、困難な状況下で、言葉の壁を乗り越え、飛行教育方法を創造し、中国人学生達を高い水準に導き、短時間で当時世界でも先進的な飛行技術を習得することが出来たのは奇跡であるとみなし、日本の同志はすばらしいと褒め称えた。そして「戦争捕虜」と見ないだけではなく、「革命の同志」と見做すようになったという。

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中共空軍創設秘話 その4(2005.11.9)

1、 中共空軍の人材巣立つ

1949年10月1日、蒋介石の国民党との内戦に中国共産党の毛沢東が勝利して、中華人民共和国が成立した。この日、北京の天安門広場で毛沢東は閲兵式を行ったが、国民党に反対して八路軍に参加した劉善本師長は、隊長機に乗って飛行編隊群を指揮して天安門上空を飛び毛沢東の検閲を受けた。この飛行により中国の人民空軍部隊の存在を世界に示したのであった。

瀋陽でも、この日同様な式典が行われるが、林少佐も隼戦闘機に乗り、他の日本人教官は九九式高等練習機を操縦して検閲を受けた。この時林少佐はまるで「ブルーインパルス」のように多くの曲技飛行を披露している。又、牡丹江の航空学校では、所有する100機以上の飛行機が地上に並べられた。国民党軍から捕獲した米空軍のP-51戦闘機や、AT-6、セスナ機なども並べられたが、まるで旧日本軍の飛行機が勢ぞろいした格好であったというから、なんとも奇妙な風景?であったのだろう。

林少佐が参加し、1946年3月に創設された「東北民主連軍学校」は、1949年10月に中華人民共和国が成立したときには3年半を経過していたが、約160名を養成、後で14名の女性操縦士も養成されたという。これらの学生達は空軍創設のため、或いは増設された航空学校の教官として、さらには朝鮮戦争の発生とともに実戦部隊の指揮官として活躍したのであるが、そこで英雄的な活躍をした張積慧,鄒炎などは林少佐が最初に教育した「甲班」「乙班」35人中の一人であったという。又、同時に多くの整備士をも養成した。

「『中国空軍の友=林弥一郎先生とその同志たち』は以上で終わっている」と新治教授は書いているが、その後の経過を教授が集めた資料から更に発展させているのでそれもご紹介しておこう。

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2、 中国人民空軍へのバトンタッチ

1949年10月1日の新中国建国と同時に、東北航空学校にも大きな変化が生じてくる。その第一は、空軍の創設と航空学校の増設に伴う編成替えである。建国後間もなく国内に新に6個航空学校が設置され、東北航空学校は「中国人民解放軍第7航空学校」と改められた。この航空学校増設の背景には、新中国とソ連との友好関係の確立があった。

新中国が成立すると、ソ連はいち早く中国を承認、中国に対して全面的な援助を開始し、戦闘機、爆撃機、輸送機、燃料など空軍創設に必要な援助を惜しみなく与えた。又同時に、教官・技術者を派遣するとともに、訓練生の受け入れも拡大した。既に1948年ごろから、ソ連人教官・技術者が中国へ来て、例えば長春飛行場では、中国人、日本人、ソ連人の三者による共同活動が行われていたという。新設された航空学校では、ソ連人教官による、ソ連製練習機での飛行訓練が開始されたが、東北航空学校の卒業生も教官として派遣されていく。その学生達は、ソ連人教官の指導下に入り、ソ連製の最新式戦闘機に乗るようになったが、それを堂々と乗りこなし、そつなく教程を消化していったのである。

この状況は、丁度新生ロシアから新鋭機・SU-27/30を導入しつつある現状と瓜二つに見える。当時ソ連が大々的に新生中国を支援したのは、第2次世界大戦後の世界支配を目論むコミンテルンの大戦略の一環であった。

こうして東北飛行学校の林部隊の任務は、新生中国が成立して航空学校が増設され、空軍が創設されたことで基本的に終了し、中国人民空軍にバトンタッチされたのである。

「林少佐が林彪などに協力を約束して4年間、更に日本人スタッフの大半が帰国する1953年までの3年余、異国での敗戦・動乱の中で死亡者は数人に過ぎない。多数の軍人集団が、自由意志の下にまとまって行動して所期の目的を達成したケースはまれであった」と新治教授は書いているが、林少佐の下に一致団結して行動し、新生中国空軍創設の約束を果たした、律儀な旧帝国陸軍軍人達の姿が髣髴としている。その反面、帰国した彼らを待っていたものは、第2次世界大戦終結後に生じた自由主義諸国と共産主義諸国との対立、いわゆる東西冷戦下において、新生中国とは水と油の関係に位置する自由主義国の日本であったから、帰国後の彼らの立場には微妙なものがあったに違いない。

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プロローグ

新治教授は本稿の最後に、その後の中国空軍の発達状況について、概括的なまとめを書き加えているが、私が中国空軍を評価するときの判断基準にしている事項を書いているので紹介しておきたい。

「中国人民解放軍は、1949年11月11日、北京に中国空軍司令部を発足させ、1950年末までに6個の軍区空軍本部組織が設立した。1950年10月には、2個高射砲大隊、16高射砲連隊、一個サーチライト連隊、2個レーダー大隊と一個航空機監視大隊からなる人民解放軍防空司令部が設立された。しかし、空軍創設の当時から空軍を陸軍から独立した軍にしようとする配慮はなく、人民解放軍の首脳部は、空軍が自主権を持つことを望んでいなかった」という部分である。

その上、創立に深く関わった林飛行隊も、帝国陸軍飛行部隊であったから当時の日本陸軍の「主力」ではなく、「補助兵力」に位置づけられていた。実態は世界に先駆けて「空軍戦力化」されていた帝国海軍でさえも、海軍部内においては「補助兵力」的に扱われていて、依然として「大艦巨砲主義」支配下にあったといえる。

世界を制した米国自身でさえも、空軍が独立したのは第2次世界大戦後であり、その後急激に「進化」するのだが、戦後に創設された「航空自衛隊」は、旧陸・海軍の航空部隊が併合された上、独立した空軍戦力として発足したのは幸運なことであった。

新治教授は「中国空軍は、当初林少佐が教育し、短期間に戦力化した軍隊であり、そこには良好な教育をすれば即刻能力向上できる中国国民の潜在力がある。

若い中国空軍軍人達は自尊心からかそれを言いたがらないらしいが、中国空軍指導者達は、林らに対して、今でも決して忘れてはならない『中国空軍の友』として尊敬し、英雄とみなしているのである」と本論文を締めくくっている。

上海で中国の空軍大佐たちと酒を酌み交わした私は、同席した現役空軍大佐達に林少佐のことを問いかけたのだが、彼らはよく理解していたから林少佐を尊敬していたと思う。

大空にロマンを求めた者同志の友情物語が切掛けで、4回にわたって中国空軍創設秘話をご紹介したが、諂うことを「友好」と勘違いしている政治家や、利益中心の商売人達には理解できないかもしれない。しかし、林少佐の貢献は歴史的事実であり、そこにはイデオロギー抜きの信頼感が生まれていることも事実である。国家に命を捧げる軍人同士に出来ることが、政治家や商売人達に出来ないはずはない!と思うのだが・・・。    (終り)

(先ほど、新治教授から丁寧な文書のコピーが届いた。ご紹介した論文は、彼が平成11年に航空自衛隊の部内誌に発表したものを私が抜粋引用したものだが、教授は「軍事史学」第36巻第3・4合併号〔平成13年3月25日発行〕に「関東軍林飛行隊と中国空軍=中国空軍建設に協力した日本人の記録=」として再録している。それによると「・・・延安を最初に出発して航空学校建設に着手した劉風と蔡云翔・・・」と書いたが、蔡ではなく「葵云翔」の間違いであったからここで訂正しておきたい。巻末の『註』に詳細な出典が示してある。)

 

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